和尚への弟子からの質問

OSHO人が通常とは異なる形態の光や色を瞑想中に見る時ーーー赤や、黄色、青、黄土色、等々---
その時、それらがどの層に属しているかをどうやって知る事ができるのですか?
また、人が純粋な光を見る状態に到達する前に、段階的に順序立っ色や光を見ることはあるのでしょうか?

光それ自体は無色だ。

全ての色が光に属している。だが、光は1つの色ではない。
光はただ、色の不在にすぎない。光とは白だ。そして、白は色ではない。光が分裂すると、あるいはプリズムを通ると7色に分かれる。

マインドもまた一種のプリズムの働きをするーーー
内なるプリズム。外界の光がプリズムを通った時、7色に分かれる。内側の旅の光を見るということは、まだあなたがマインドの中にいるという意味だ。

光を見るということは、マインドを超えている。が、色の体験はマインドの手中にある。

そこで、もしあなたがまだ色を見ているのなら、まだマインドの中にいる。マインドをまだ超えていない。

まず第1に、覚えておきなさい。
色を見るのはマインドの中の現象だ。
マインドは内なる光を分けるプリズムの働きをする。
だから最初、人は色を見る。光は白だ。そして白は色ではない。

全ての色が1つになった時、あなたは白色を感じる。すべての色が分裂していない時、あなたは白色を見る。
そして色がなければ黒を見る。黒と白は両方、色ではない。

色が存在しない時、黒がある。すべての色があり。分裂していない状態の時、白がある。
全ての色は、分裂している光なのだ。
もし内側に色を感じるのなら、それはつまりあなたがマインドの中にいることの証だ。
色と体験とは、心的なものだ。
霊的なものではない。

光を見るのは霊的なことだ。
色を見るのは霊的なことではないーーー

マインドがなければ、色を見ることはあり得ないからだ。その場合には、光だけが体験される。
第2に、決まった色の順序はない。それはあり得ない。人それぞれ、異なるマインドを持っているからだ。
が、光の体験はまったく同じだ。

ブッダは光を体験し、イエスは光を体験したーー

その体験は同じものだ、それ以外ではありえない。違いを生じさせるものは、もうそこにはない。
違いを生じさせているのはマインドだ。
我々はここにいるーーー我々が違うのはマインドのせいだ。

もしマインドがなければ、我々を区別している要因は、違いを生じさせる要因はない。だから光の体験は同じものだ。
だが、色を見ることは違う。色の順序は異なる。そのために、それぞれの宗教で。。異なる色の順序がある。ある宗教では、最初にこの色が来て、最後にはあの色が来る、というように信じている。

別の宗教では、まったく違う事を信じている。その違いは、実際にはマインドの違いだ。